Home 世界遺産・文化的景観高松塚古墳壁画①——ショウガの穴が開けた、1300年の扉

高松塚古墳壁画①——ショウガの穴が開けた、1300年の扉

by MOMO

1. 導入

明日香村の丘に、松の木が生えていた。

村人はその丘を「高松山」と呼んでいた。古墳だという認識は、江戸時代の絵図にも残っている。誰もが知っていた。しかし誰も掘らなかった。

1960年代後半のある日、村人が丘の南側にショウガを貯蔵しようと穴を掘った。直径60センチほどの穴の底に、四角い切石が現れた。

それでも、丘はすぐには掘られなかった。

資金がなかった。体制がなかった。村人が明日香村に働きかけ続け、村史編纂という別の動機が重なり、ようやく1972年3月1日、発掘が始まった。

3月21日、雪がちらついていた。

薄暗い石室をのぞき込んだ研究者が見たのは、1300年前の色彩だった。

なぜこの発見が、日本中を揺るがしたのか。そして今、私たちはその壁画を守れているのか。


2. 基本情報

項目内容
正式名称高松塚古墳(たかまつづかこふん)・国宝高松塚古墳壁画
所在地奈良県高市郡明日香村大字平田
築造時代藤原京期(694〜710年)と確定(2005年の発掘調査による)
被葬者未特定。詳細は関連記事「高松塚古墳——誰が眠っているのか」参照
古墳形式二段築成の円墳(下段直径約23m、上段約18m、高さ約5m)
壁画構成四神(青龍・白虎・玄武・朱雀)、男女人物群像、日月像、星宿図(天井)
文化財指定特別史跡(古墳本体)、国宝(壁画)、重要文化財(出土品)
世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」構成資産。2026年6月イコモス登録勧告。7月の世界遺産委員会(釜山)で正式決定の見通し
壁画公開2026年度から約4年間休止。新施設完成(2029年度末予定)後に再開予定

3. 発掘の経緯

丘は、ずっとそこにあった

明日香村には古墳が多い。石舞台古墳、キトラ古墳、天武・持統陵——飛鳥の丘陵地帯は古代の墓域だったといってもよい。高松塚もその一つとして、村人の日常の中にあった。

切石が見つかったのは1960年代後半のことだ。文化庁の公式記録では昭和44年(1969年)4月と記されており、地元住民が偶然掘った穴の底に凝灰岩の切石を見つけたことで、この丘が古墳であることが改めて意識されるようになったとある。ただし別の資料では1962年頃とも記されており、正確な年代については史料間でわずかにズレがある。

切石が見つかってから正式な発掘が始まるまで、数年の時間があった。

理由は単純だ。村には資金がなかった。体制もなかった。地元の住民が村に働きかけ続け、村が橿原考古学研究所に依頼し、村史編纂事業という別の文脈がその後押しをした。偶然の発見と、人の意志と、制度の都合が重なって、ようやく1972年3月1日、発掘が始まった。

雪の日の午後

発掘を担ったのは、奈良県立橿原考古学研究所の末永雅雄所長の指揮のもと、関西大学助教授・網干善教(あぼしよしのり)を中心とした研究者と学生のグループだった。

網干には、この土地との因縁があった。明日香村の出身で、幼い頃に末永が指揮した石舞台古墳の発掘を見学した経験があったのだ。その恩師のもとで、故郷の丘を掘ることになった。

3月18日、深さ3メートルの盗掘穴の底に石室が確認された。

3月21日の正午過ぎ、雪がちらついていた。

網干が薄暗い石室内部をのぞき込んだ。盗掘孔から差し込むわずかな光の中に、色彩があった。漆喰の壁に直接描かれた人物の像。鮮やかな衣、細い描線——1300年分の色が、そこにあった。

この瞬間を、学生たちも共有した。

調査班はその日のうちに写真家を手配し、記録撮影を進めた。マスコミに察知されることを恐れながら、慎重に、静かに。

そして3月26日、記者会見が開かれた。

カラーが、日本を揺るがした

「法隆寺級の壁画発見」「大陸交流 貴重な手がかり」——各社が大々的に報じた。さらにその3日後、朝日新聞が女子群像のカラー写真を掲載した。

これが決定打になった。

1972年。高度経済成長がピークを過ぎ、日本列島改造計画が叫ばれ、翌年には石油ショックが来る。そして同じ年の5月、沖縄が27年ぶりに日本に返還された。日本人が「自分たちは何者か」を問い直していた年に、1300年前の日本人の顔が、地面から出てきた。

白黒が当たり前だった新聞紙面に、極彩色の群像が踊った。読者は朝の食卓で、飛鳥の女性たちと目が合った。

飛鳥美人という言葉が生まれた。教科書に載った。当時を知る人によれば、レンタサイクルに乗った家族連れが明日香村に押し寄せ、考古学ブーム・飛鳥ブームが全国を席巻したという。日本画の巨匠・平山郁夫ら著名な画家たちが壁画の模写に取り組んだという記録も残っており、文化的な反響は学術の域をはるかに超えた。

翌月4月5日、発掘調査は明日香村から文化庁に引き継がれた。一地方の村史編纂事業は、一夜にして国家プロジェクトになった。

ちなみに、この発掘を実現させた予算50万円は、もともと川原寺で発見された塼仏(せんぶつ)の発掘のために集められた資金だった。ショウガの穴で始まり、別の古墳の予算で動き、村史編纂という別の動機が後押しした——偶然の連鎖が重ならなければ、あの色彩はまだ土の中にあったかもしれない。


4. 壁画の概要

石室の寸法は、奥行き約265cm、幅約103cm、高さ約113cm。大人が二人、かがんでやっと入れる広さだ。

その壁面に、飛鳥時代の宇宙観が凝縮されている。東壁には青龍と日像、西壁には白虎と月像。北壁には玄武(亀と蛇)。南壁には本来、朱雀が描かれていたと推定されているが、鎌倉時代の盗掘によって失われた。天井には28の星宿が金箔で打たれ、朱線でつながれた星宿図が広がる。

四神、日月、人物、星座。死者のために用意された空間に、天地四方のすべてが描き込まれている。

日本中を熱狂させた「飛鳥美人」は、西壁の女子群像だ。4人の女性が鮮やかな衣装をまとって並ぶ姿は、発見直後から飛鳥時代の顔になった。ただしこの群像は「美人画」として描かれたのではない。四神・日月・星座と同じ宇宙的な図像体系の中に位置する、死者の旅を見守る存在だ。「飛鳥美人」という名前の力は絶大だったが、その名前で切り取ると壁画全体の意味構造から切り離されてしまう。

壁画の詳細な読み解きと副葬品・被葬者の謎については、関連記事「高松塚古墳——誰が眠っているのか」で扱う。


5. 体験としての鑑賞

古墳の丘と、壁画館の静けさ

高松塚古墳は、国営飛鳥歴史公園の中にある。近鉄飛鳥駅から歩いて15分ほど。明日香の丘陵地をゆるやかに進むと、こんもりした円墳が現れる。石室は2007年に解体・移送されており、今見える丘は2009年に仮復元されたものだ。

丘の隣に壁画館がある。1977年開館、築50年近い建物だ。キトラ古墳の「四神の館」と比べると、その差は一目で分かる。四神の館は地下展示室に石室の原寸大レプリカや映像投影を備えた体験型施設だが、壁画館は落ち着いた昭和の展示空間だ。古くて、少し薄暗い。

しかし中に入ると、模写が近い。

整然とした新しい施設では感じにくい「手の届きそうな距離」がある。訪れる人は多くなく、大仏殿のような観光地の喧騒とは別の時間が流れている。「飛鳥美人」の衣の線、色の重なり——落ち着いた空間の中で、模写はただそこにある。

壁画実物の公開は2026年度から約4年間休止される。新施設が完成する2029年度末まで、実物を見る機会はない。古い壁画館も新施設の建設に伴い解体される予定だ。

大切にされているから、形が変わる。1972年の発見が日本中を動かし、半世紀をかけて守り続けてきた結果が、この変化だ。


6. 深掘りコラム

コラム① 壁画は「完全」だったのか

発見当初、高松塚壁画は「奇跡的に保存された」と報じられた。

確かに色彩は鮮やかだった。しかし「完全」ではなかった。

南壁は鎌倉時代の盗掘で失われており、朱雀は存在しない。北壁の玄武は、発見当時すでに亀と蛇の顔部分が削り取られていた。誰が、いつ、なぜ削ったのか——理由は分かっていない。盗掘者が持ち去ったのか、あるいは別の理由があったのか。記録に残っていない。

さらに、発見後の保存管理が壁画を傷めた。

石室は発掘後、現地での保存が選択された。しかし密閉された環境でカビが繁殖し、壁画は急速に劣化した。2004年、朝日新聞が白虎の劣化を大きく報じたことで問題が広く知られるようになった。文化庁は対策検討会を立ち上げ、2007年に石室を解体・修理施設へ移送することを決定した。修復は2020年3月に完了している。

壁画は二度の受難を経ている。鎌倉時代の盗掘と、現代の管理の失敗だ。

「発見」は終点ではなかった。発見してからどう守るか——その問いに、高松塚は正面から向き合うことになった。

コラム② 壁画が古墳に戻れない理由

修復が完了した2020年以降、高松塚壁画はどこにあるのか。

石室は修理施設の中にある。古墳の丘から切り離された状態のまま、文化庁が保存管理を続けてきた。2008年以降、年4回の事前申込制で実物が窓ガラス越しに公開されてきたが、2026年度からその公開が約4年間休止される。壁画を恒久的に保存・公開するための新施設建設工事が始まるためだ。2029年度末の完成後、新施設での公開が再開される予定だという。

一方、キトラ古墳の壁画は2016年開館の「四神の館」で公開が続いている。地下展示室には石室の原寸大レプリカ、天井には天文図の投影——体験型の展示環境が整っている。

新施設が完成すれば、展示環境は確実に改善される。より多くの人が、より良い環境で壁画と向き合えるようになる。

ただ、保存には常に「何を正とするか」という問いがつきまとう。ノートルダム大聖堂の再建をめぐって「どの時代の姿に戻すのか」という国際的な論争が起きたように、高松塚の場合もその問いは単純ではない。壁画は石室の中にあってこそ意味を持つのか。古墳の丘から切り離された状態での保存は、何を守り、何を手放すことになるのか。

1972年の雪の日に石室をのぞき込んだ研究者が見た色彩は、今も修理施設の中にある。

4年後、壁画は新しい場所で公開される。より多くの人がその色彩に触れることになる。それは間違いなく良いことだ。ではあの壁画館で感じた、模写との静かな距離は、何だったのだろうか。


7. 現地情報

項目内容
所在地奈良県高市郡明日香村大字平田(国営飛鳥歴史公園内)
古墳丘終日開放・無料
高松塚壁画館古墳に隣接。壁画模写・石槨模型・副葬品レプリカを展示。開館時間9:00〜17:00(入館は16:30まで)、休館日あり
壁画実物公開2026年度から約4年間休止。2029年度末に新施設での公開再開予定

※ 公開スケジュール・新施設の詳細は変更される場合があります。 → 文化庁「高松塚古墳・キトラ古墳」公式ページで最新情報を必ずご確認ください。

アクセス 近鉄飛鳥駅から徒歩約15分。レンタサイクルも利用可(飛鳥駅周辺に貸出店あり)。

あわせて訪れたい 高松塚古墳 → キトラ古墳(四神の館)→ 石舞台古墳

二つの壁画古墳を続けて訪れると、展示環境・壁画のスタイル・副葬品の格式の差が身体で分かる。


8. 関連リンク・参考情報

文化遺産オンライン「高松塚古墳出土品」
文化庁「高松塚古墳の概要」
文化庁「高松塚古墳・キトラ古墳」
国営飛鳥歴史公園「高松塚古墳」
明日香村公式「高松塚古墳(国指定特別史跡)」

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9. 用語・技法のミニ解説

横口式石槨(よこぐちしきせっかく) 凝灰岩などの切石を箱形に組み合わせた石室形式。高松塚・キトラ・天武持統陵などに見られ、7世紀後半から8世紀初頭の終末期古墳に特徴的な形式だ。

星宿図(せいしゅくず) 夜空の星座を描いた図。高松塚の天井には28の星宿が金箔と朱線で描かれ、七宿ずつ東西南北に配置されている。キトラの天文図が赤道・黄道に相当する4つの円を持つ精密な星図であるのに対し、高松塚は視覚的なデザインとしての完成度が高い。

四神(しじん) 東西南北の四方を守護する神獣。東=青龍、西=白虎、南=朱雀、北=玄武。高句麗の壁画古墳を通じて日本に伝来したと考えられている。高松塚では盗掘により南壁の朱雀が失われており、四神が現存するのはキトラ古墳壁画のみだ。

アイキャッチ画像
Photo by alonfloc (via Wikimedia Commons)
Cropped from original
CC BY-SA 3.0

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