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1. 導入
1982年、静岡県立美術館は一隻の屏風を購入した。
右側だけの屏風だった。獣が描かれていた。白象が中央に鎮座し、周囲に虎や鹿、見たこともない異国の生き物たちが群れていた。そして画面全体が、無数の小さな升目で埋め尽くされていた。
一隻の屏風として、11年間、その作品は展示室に置かれていた。
欠けていることを、誰も知らなかった。
1993年、左隻が発見された。鳳凰が描かれていた。升目の大きさも、彩色の方法も、画面の高さも一致した。二つを並べると、水辺の楽園が広がった。調査の末、同時に描かれた一双の屏風だったことが確認され、現在の名が与えられた——《樹花鳥獣図屏風》。
なぜ右と左が離れたのか。いつから別々になったのか。記録はない。
この屏風には、絵の中だけでなく、絵の外にも「分からないこと」が積み重なっている。
十八世紀の京都で伊藤若冲(1716〜1800)が描いたとされる升目の絵は、近づけば像が消え、離れれば像が現れる。我々は幸運にも、一対になった作品に向き合える。
なぜ輪郭線を捨て、11万6,000個の升目を一つずつ塗ることを選んだのか。
その問いに若冲は何も答えていない。しかし屏風の前で距離を変えながら立っていると、答えより問いの方が深くなっていく。

Public domain image via Wikimedia Commons

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2. 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 樹花鳥獣図屏風(じゅかちょうじゅうずびょうぶ) |
| 作者 | 伊藤若冲(詳細はコラム参照) |
| 制作時期 | 18世紀後半(江戸後期) |
| 種別 | 紙本着色・六曲一双屏風 |
| 寸法 | 右隻 137.5×355.6cm、左隻 137.5×366.2cm |
| 技法 | 升目描き(ますめがき) |
| 所蔵 | 静岡県立美術館(静岡県静岡市駿河区谷田53-2) |
| 文化財指定 | 要確認(公式サイトを参照) |
| 今見ておくべき理由 | 高精細複製では体験できない「距離と像の往復」が、この作品の本質。実物でしか確かめられない |
※展示スケジュール・開館時間・休館日・観覧料は変動します。最新情報は静岡県立美術館公式サイトをご確認ください。
3. 歴史と背景
商家の跡取りが、なぜ絵師になったのか
伊藤若冲は1716年(正徳6年)、京・錦小路の青物問屋「桝屋(ますげん)」の長男として生まれた。23歳で父の死を受け、4代目の家督を継ぐ。
商売には熱心でなく、妻も娶らず、酒も嗜まなかった。縁側に放し飼いにした鶏を何年もかけてスケッチし続けたという逸話が残る。
齢40となった1755年(宝暦5年)、若冲は家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、早々と隠居する。その後、交流の深かった相国寺の禅僧・大典顕常のもとで仏教・書・絵の薫陶を受けながら、本格的に絵師としての道を歩み出す。
《動植綵絵》30幅の制作はこの時期から始まる。若冲は極彩色の絹本に鶏や孔雀、草花を執拗な観察によって描き込んだ。それは同時代の装飾画家とも、写生の大家・円山応挙とも異なる方向だった。
升目描きの《樹花鳥獣図屏風》が描かれたのは、それよりさらに後、18世紀後半のことと考えられている。晩年の若冲が、絵画の骨格そのものを問い直し始めた時期の作だ。
この屏風には、もう一つの「分からなさ」がある
《樹花鳥獣図屏風》をめぐって、静岡県立美術館は長年、作者の表記に慎重な姿勢を取ってきた。
「若冲その人が筆を執って描いたとは確定できない」という判断から、かつては「筆者不詳」、次いで「伊藤若冲派」として扱われてきた経緯がある。現在は研究の進展や認知の混乱を防ぐ観点から「伊藤若冲」の名で統一されているが、美術館自身は「制作総括者としての伊藤若冲」という含みを持たせている。
工房作か、本人による下絵をもとにした共同制作か、それとも若冲の筆によるものか——この問いはまだ決着していない。
作品の前に立つとき、この「分からなさ」は知っておいてよい。
4. 技法と構造——なぜ升目でなければならなかったのか
骨格が、絵になった
通常の日本画は輪郭線から始まる。線で形を定め、その内側に色を置く。像は線が作る。
升目描きは違う。
まず画面全体に縦横約1センチ間隔の線を薄墨で引き、方眼を作る。次にその方眼一つ一つを、淡い色から濃い色へと2〜3色で塗り重ねる。11万6,000個を超える升目が積み重なった果てに、初めて像が浮かび上がる。輪郭線はない。線があるとすれば、升目と升目の境界だけだ。
絵を支える骨組みが、そのまま絵になっている。下地として隠れるはずの構造が、画面の前面に出てきた。
なぜ若冲はこの手法を選んだのか。本人の言葉は残っていないが、発想の源として有力視されているのが西陣織の下絵「正絵(しょうえ)」だ。方眼上に色を指定するこの設計図と升目描きの構造は、視覚的に近い。朝鮮半島に伝わる工芸技法「紙織画(ししょくが)」——細く切った紙を織物のように編んで画面を作る手法——との関連も指摘されている。さらにインド絨毯の点描的な表現との比較を挙げる研究者もいる。
どれが直接の発想源かは断定できない。ただ確かなのは、升目描きが純粋な絵画の発想から生まれたのではなく、染織や工芸の論理——「小単位の集積によって像を作る」という別の知の体系——を絵画に持ち込んだ可能性が高いということだ。
《鳥獣花木図屏風》と何が違うのか
升目描きの作品は現存3点のみ確認されている。静岡県立美術館の《樹花鳥獣図屏風》、エツコ・ジョー・プライスコレクション(カリフォルニア)の《鳥獣花木図屏風》、そして個人蔵の《白象群獣図》だ。
《鳥獣花木図屏風》は構図・彩色ともに升目描きの完成形とも呼ばれる。《樹花鳥獣図屏風》に比べて色彩が豊かで、技法的に洗練されているとする研究者もいる。一方で、静岡本の方が動植物の形態に若冲らしい緊張感があるとする評価もある。
どちらが「より若冲らしいか」という問いは、若冲の関与の程度という未解決の問題とも絡み合い、簡単には答えが出ない。二つを見比べることで、升目描きという方法が「完成」ではなく「実験」の連続だったことが浮かび上がってくる。
何が描かれているか
右隻には霊獣を含む23種の獣が、左隻には35種の鳥が描かれている。白象が右隻の、鳳凰が左隻の主役だ。牡丹や果樹に囲まれた水辺に、実在の身近な生き物から舶来の動物、麒麟や唐獅子といった空想上の霊獣まで、多種多様な存在が争うことなく群れ集う。
この「平和な楽園」の構図には、仏教の「草木国土悉皆成仏」——生きとし生けるものすべてが成仏するという思想——の影響を見る研究者もいる。
5. 体験としての鑑賞
近づくな。まず引け。
この屏風を見るなら、最初から近づかない方がいい。
展示室に入ったら、まず数メートル離れた位置で立ち止まる。右隻では白象の大きな体が水辺に落とす影が見えてくる。左隻では鳳凰が羽を広げて場を支配している。花樹の色彩が画面全体に広がり、確かな「風景」がそこにある。
そこからゆっくり近づく。
一歩ごとに、像は分解されていく。花びらの曲線が色面の集合へ変わり、獣の毛並みが四角形の繰り返しへと置き換わる。あと数歩でさわれる距離まで近づくと、もはや鳥も獣も見えない。無数の升目だけが広がっている。
そこから再び後ろへ下がる。
像が、戻ってくる。
この往復が、この作品の核心だ。「絵を見ている」というより、「絵との距離を測っている」という感覚に近い。像を見ているのではなく、像が生まれる条件を自分の足で確かめている。
屏風という形式が、もう一つの動きを作る
屏風は折れ曲がっている。正面が一つではない。
立つ位置によって、各扇面が光をわずかに違う角度で受ける。画面全体を一度に正面から見ることはできず、歩くたびに見え方が変わる。この「正面のなさ」は、固定された一点から像を鑑賞するヨーロッパ絵画の遠近法とはまったく異なる空間感覚だ。
絵は動かない。動いているのは、鑑賞者の方だ。しかし見え方を変えているのは、作品の側でもある。
6. 深掘りコラム
コラム① 「奇想の先駆者」という見方は正しいのか
若冲はしばしば「時代を先取りした画家」として紹介される。抽象絵画に近い、デジタルアートの先駆けだ、と語られることも少なくない。
しかし、ここには認識の罠がある。
《樹花鳥獣図屏風》の画面には、鳥も獣も花も樹木もある。主題は具象だ。若冲が抽象表現を目指したことを示す記録は、確認されていない。
では、なぜ現代人にはこれほど「新しく」見えるのか。
理由の一つは、私たちが近代以降の視覚体験を持っているからだ。印刷の網点、モニターの画素、ドット絵——そうした経験を通して升目の集合を見るため、そこに現代性を感じる。しかしそれは若冲が「未来を予言した」のではなく、現代人の目が、江戸の画面に自分たちの視覚体験を重ねているにすぎない。
もう一つ、重要な指摘がある。
升目描きの発想源として有力視されているのは西陣織の下絵「正絵」や朝鮮半島の紙織画だ。つまりこの手法は「絵画の革新」というより「染織・工芸の論理の移植」として生まれた可能性が高い。
若冲が未来を見ていたのではないとすれば、何を見ていたのか。
「奇想」と呼ばれた人間にとって、升目を一つずつ塗ることは当たり前の仕事だったのかもしれない。それが二百年後の私たちの目に触れたとき、突然「未来的」に見えた。時を超えてきたのは若冲ではなく、若冲の当たり前だ。
コラム② この屏風は、「一つの作品」だったのか
《樹花鳥獣図屏風》には、もう一つの「分からなさ」がある。
右隻と左隻が、最初から「一双」として描かれたのかどうかを示す直接の史料がない。
静岡県立美術館が右隻を購入したのは1982年のことだ。11年後の1993年、左隻が別の場所で発見された。両隻を並べてみると、構図の連続性・技法の一致・主題の対称性から「本来一双で描かれたもの」と判断され、現在の呼称と展示形式が定まった。
つまり私たちが目にしている「一双の屏風」という姿は、200年以上を経て、別々に流れ着いた二つが再会した形だ。
なぜ離れたのか。どこにあったのか。誰が持っていたのか。
記録はない。
この屏風は、「作品」として完成した瞬間よりも、その後の流転の時間の方がはるかに長い。再会するまでの11年間、右隻は静岡の美術館で単独の作品として展示されていた。そのとき「欠けている」と誰も知らなかった。
左隻が現れて初めて、右隻は「半分」だったことが分かった。
完全だと思っていたものが、再会によって不完全だったことが判明する。この逆転は、美術の世界では珍しくない。しかし升目描きという「積み重ねによって像を作る」構造を持つこの屏風が、まさに積み重ねるように二つに引き裂かれ、また戻ってきたことには、偶然とは思えない何かを感じる——もちろんそれは、史料ではなく、見る者の印象にすぎないが。
コラム③ バラバラに保存された屏風に、何が起きたのか
右隻が静岡県立美術館に収蔵されたのは1982年。左隻が加わったのは1993年。その間、11年以上にわたって二つは別々の場所にあった。
屏風絵の保存において、環境は命綱だ。温度・湿度・光の量・展示頻度——これらが異なれば、同じ絵具でも経年変化の速度が変わる。右隻と左隻が別々に保管されていた期間、それぞれがどんな環境に置かれていたかは公開されていない。
ただ、一つの事実がある。
右隻の保存状態は良好とは言えない、という複数の記録がある。絵具の剥落、升目の潰れ、彩色の粗さ——これらは1982年の購入時点ですでに確認されていたとされる。一方、別ルートで発見された左隻との比較については、詳細な保存修復記録が一般に公開されていない。
つまり、二つが再会したとき、どれだけの差が生じていたのかを私たちは正確に知ることができない。
これは《樹花鳥獣図屏風》だけの問題ではない。一双として描かれた作品が分かれて流通することは、日本の美術史では珍しくない。売買・相続・戦禍・火災——屏風はその性質上、分離しやすい。再会したとき、片方だけが傷んでいることもある。片方だけが消えていることもある。
《樹花鳥獣図屏風》は再会できた。それ自体が、まず幸運だった。
しかし、11年の別居が二つの隻にどんな痕跡を残したのか。並べて見るとき、その問いを頭の片隅に置いておいてもいいかもしれない。右と左で、升目の色の沈み方が少し違うように見えたとしたら——それは保存環境の差なのか、描いた手の違いなのか、あるいは単なる見る者の思い込みなのか。
確かめる方法は、今のところない。
7. 現地情報
所蔵先 静岡県立美術館(静岡県静岡市駿河区谷田53-2)
アクセス JR東海道線「東静岡駅」から徒歩約15分、またはバス利用
展示について 常設展示ではなく、収蔵品展での公開が中心。毎年ゴールデンウィーク期間に特別公開されることが多いが、展示スケジュールは年度によって変わる。
所要時間の目安 展示室での鑑賞:30〜60分。ロダン彫刻館など他の常設展示と合わせれば90分程度。
混雑を避けるために 特別公開期間の初日・休日午後は混雑しやすい。平日の開館直後が比較的ゆったり向き合える。
※開館時間・休館日・観覧料・展示スケジュールは変動します。必ず公式サイトでご確認ください。 → 静岡県立美術館公式サイト
8. 関連リンク・参考情報
→ 静岡県立美術館《樹花鳥獣図屏風》デジタルアーカイブ
→ キヤノン綴プロジェクト《樹花鳥獣図屏風》
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9. 用語・技法のミニ解説
升目描き(ますめがき) 縦横に方眼を引き、一升ごとに2〜3色を重ねて塗る描法。輪郭線を使わず、色の集積で像を作る。若冲が発明したと考えられているが、発想源として西陣織の下絵「正絵」や朝鮮の紙織画との関連が指摘されている。現存する升目描きの作品は3点のみ。
六曲一双屏風(ろっきょくいっそうびょうぶ) 六枚のパネルを連結した屏風を左右一対にした形式。日本の大画面絵画の代表的な形式。《樹花鳥獣図屏風》では右隻が「獣づくし」、左隻が「鳥づくし」として構成されている。二つが別々に流通した後、静岡県立美術館で一双として再統合された。
正絵(しょうえ) 西陣織の織物を作る際の下絵・設計図。方眼(意匠図)上に色を割り付けていく形式で、升目描きとの視覚的な類似が指摘される。若冲が錦市場という織物文化の中心地に育ったことと、この手法の発案には関係があると考えられている。
紙織画(ししょくが) 細く切った紙を織物のように編んで画面を作る工芸的な絵画技法。中国・朝鮮に古くから伝わり、江戸時代に日本へ伝来したとされる。升目描きの発想源の一つとして研究者に挙げられている。
奇想の系譜 美術史家・辻惟雄が1970年に著した書物のタイトル。若冲・曾我蕭白・長沢芦雪らを「奇想の画家」として再評価し、若冲研究の起点となった。この本がなければ、《樹花鳥獣図屏風》が現在のように広く知られることはなかったかもしれない。
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