Home 国宝・重要文化財薬師寺東塔——「凍れる音楽」と呼んだのは誰か、そしてなぜ人は古色をまとった塔の前で足を止めるのか

薬師寺東塔——「凍れる音楽」と呼んだのは誰か、そしてなぜ人は古色をまとった塔の前で足を止めるのか

by MOMO
薬師寺東塔

1. 導入

境内に入ると、塔が二本並んでいる。

一本は鮮やかだ。青と赤の彩色が陽光を弾き、建てられたばかりのように見える。もう一本は古色をまとっている。雨と風と時間が染み込んで、1300年分の色がそこにある。

この二本は同じ形をしている。同じ寺の、同じ様式の塔だ。

しかし並べて見ると、片方だけが別の時間に立っているように見える。

古色をまとったほうが東塔。730年頃の建立とされ、1300年近くここに立ち続けている。

その色は、単純に経年のせいだ。風雨による木材と瓦の変色である。どんな寺の塔でも1300年経てば同じことが起きる。

しかしなぜか、この色は単なる経年には見えない。

薬師寺は檀家を持たない。680年に天武天皇の発願で創建されて以来、この寺には一般寺院のような信者組織がなかった。中世には兵火で全山を失い、近代には廃寺寸前まで追い込まれた。それでも僧たちは寺を手放さなかった。昭和42年に管主となった高田好胤は、全国800以上の市町村を回り8000回を超える法話で人々に写経を呼びかけ、その供養料で金堂を再建し西塔を復元した。檀家の代わりに、言葉で寺を養った。

東塔はその歴史をずっと見ていた。

経年が正体だとしても、その向こうに何か別のものが滲んでいるように見えるのは、そういう理由かもしれない。

「凍れる音楽」という言葉がある。静止した建築の中に律動を見いだした、近代の人間の言葉だ。しかしその言葉が誰のものなのか、実はよく分かっていない。建物は1300年変わっていないのに、人間の側の解釈だけが変わり続けてきた。

なぜ人は、この塔の前で足を止めるのか。


2. 基本情報

項目内容
正式名称薬師寺東塔(やくしじとうとう)
所在地奈良県奈良市西ノ京町457
建立時代奈良時代・天平2年(730年)頃とされる
関係人物天武天皇(発願)・持統天皇・聖武天皇
建築様式木造三重塔、毎重裳階付、本瓦葺
規模総高約34メートル(相輪含む)
文化財指定国宝(建造物)
世界遺産1998年「古都奈良の文化財」構成資産
特徴現存する薬師寺創建当初唯一の建造物。三重塔だが裳階により六重に見える
今見ておくべき理由隣の西塔(1981年再建)との対比によって初めて、東塔の1300年が身体で分かる

※拝観時間・拝観料は変更される場合があります。最新情報は必ず薬師寺公式サイトでご確認ください。


3. 歴史と背景

二つの薬師寺

薬師寺はもともと、今の場所にあったわけではない。

680年、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って発願した。最初の薬師寺は藤原京、現在の橿原市に建てられた。710年の平城京遷都にともない、寺は現在の西ノ京へ移転している。

ただし「移転」の実態については史料だけでは断定できない。建物を解体して移築したとする説、藤原京の薬師寺を残しつつ新たに平城京薬師寺を建立したとする説など、複数の見解がある。「藤原京薬師寺」の遺構も現存しており、今も発掘が続いている。

東塔は天平2年(730年)の建立と考えられている。『薬師寺縁起』や発掘成果がその根拠だ。

創建当初、薬師寺には東塔と西塔が対になって立っていた。双塔式の伽藍配置は、日本ではこの薬師寺が先例となった。

しかし享禄元年(1528年)、興福寺衆徒・筒井順興の兵火により、西塔を含む薬師寺のほぼ全山が焼失する。生き残ったのは東塔と東院堂だけだった。

以来450年以上、東塔は一本で立ち続けた。

1981年、西塔が再建された。設計は宮大工・西岡常一。伝統的な技法と木材の乾燥収縮を計算に入れ、東塔より約30センチ高く作られている。500年後には同じ高さになる計算だという。


4. 建築の特徴

三重塔が六重に見える理由

東塔の高さは約34メートル(相輪含む)。構造は三重塔だ。

しかし目の前に立つと、ほとんどの人が六重塔だと思う。

各層に「裳階(もこし)」と呼ばれる小屋根が付いているためだ。本来の屋根と裳階が交互に重なり、屋根の数は合計六枚になる。大きな屋根、小さな屋根、大きな屋根、小さな屋根——その繰り返しが上へ向かって続き、相輪へと収束していく。

視線が下から上へ引き上げられる。塔は静止しているのに、目が動く。

この感覚を「凍れる音楽」と呼んだ人がいた。

裳階は薬師寺だけの意匠

各層に裳階を持つ三重塔は、日本の現存建築の中で薬師寺東塔だけだ。

裳階は本来、建物本体を風雨から守るための付属的な庇である。しかし東塔では、それが建物の造形的な核心になっている。機能から始まった要素が、美の要素へ転化した。

同時代の塔との比較で言えば、法隆寺五重塔(7世紀後半)は重心を大地に置き、どっしりとした安定感を優先する。飛鳥時代の建築の骨法だ。東塔は垂直方向への律動を前景化し、視線を空へ引き上げることを狙っている。同じ「塔」という名称でありながら、人に与える重力の感覚がまったく異なる。

法隆寺五重塔が「ここに在る」建築だとすれば、東塔は「上へ向かう」建築だ。


5. 体験としての鑑賞

まず、少し距離を取って南側から見る。

近くに立ちすぎると、全体構成が視界に入らない。10メートル以上離れて初めて、六枚の屋根が重なる全体のリズムが見える。

次に、境内をゆっくり横に歩きながら眺める。

塔は動いていないのに、印象が変わる。屋根の重なりが生む陰影が、立つ位置によって深さを変える。この変化は、塔が変わっているのではない。自分の視点が動いているだけだ。それが分かったとき、「凍れる音楽」という言葉の意味が少し近くなる。

東塔の内部には入れない。ただし初層の扉が開けられており、外から心柱と天井画を見ることができる。コラム③で触れる心柱——1300年後に建立年代の謎を解いたあの柱——が、扉の向こうにある。知ってから見るのと、知らずに見るのとでは、同じ扉が別のものに見える。

そして、隣の西塔を見る。

鮮やかだ。青と赤。創建当初の薬師寺はこういう色をしていた。ならば東塔の古色は「劣化」なのか。それとも1300年という時間の堆積そのものか。

答えを出す前に、もう一度東塔を見る。

建物は1300年変わっていない。変わったのは、それを見る人間の側だけだ。天武天皇も、高田好胤も、フェノロサも、そして今日ここに来た人も——みんな同じ塔の前に立って、それぞれ別のものを見ていた。


6. 深掘りコラム

コラム①「凍れる音楽」と言ったのは、本当に誰なのか

多くの人が「フェノロサが薬師寺東塔を見て言った言葉だ」と信じている。

アーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853〜1908)。アメリカ出身の美術史家で、明治期の日本美術の再評価に大きな役割を果たした人物だ。夢殿の救世観音像を「発見」した人物でもある。フェノロサが東塔を「凍れる音楽」と称した——この話は長く語り継がれてきた。

しかし、フェノロサの著書にはその記述が見当たらない。

研究によれば、「凍れる音楽」という表現を東塔に最初に用いたのは、日本の美術評論家・黒田鵬心(1885〜1967)が著書『奈良と京都』に書いたのが日本語での初出だとする説がある。フェノロサの言葉として語り継がれたのは、後世の誰かが混同したか、あるいは意図的に権威づけをしたためではないかとも言われている。

ではそもそも「建築は凍れる音楽だ」というアイデア自体はどこから来たのか。

これはドイツ観念論の哲学者フリードリッヒ・シェリング(あるいはその義兄弟シュレーゲル)が「建築は空間における音楽」と述べたことに端を発するとされる。ゲーテもこの発想に言及しているが、「ある哲学者がそう呼んだ」と距離を置いた書き方をしている。つまりゲーテ自身は「建築は凍れる音楽だ」とは言っていない。

フェノロサはシェリングの概念を知っていた。東京美術学校での講義記録には「建築は音楽の凍りて形に現はれたる者」という言葉が残っている。その概念を薬師寺東塔に当てはめた——という経緯は考えられる。しかし、それを直接確認できる一次資料は今のところ見つかっていない。

要するに「凍れる音楽」の帰属は、今も確定していない。

ここで面白いことが起きている。

東塔は1300年変わっていない。変わったのは、人間の側の言葉だ。シェリングの哲学、フェノロサの美術論、黒田の評論——それぞれの時代が、同じ塔に別の言葉を重ねてきた。「凍れる音楽」という表現の帰属が曖昧なのは、ある意味でこの塔の本質を映している。誰の言葉か、ではなく、なぜその言葉がこの塔に吸い付いてきたのか——そちらの問いのほうが、塔の前では重要かもしれない。


コラム② 天皇の寺が、なぜ廃寺寸前になったのか

薬師寺は天武天皇の発願で生まれた。国家が建て、国家が維持することを前提とした寺だった。

奈良時代の薬師寺は、それにふさわしい規模を持っていた。双塔式の大伽藍、国宝の薬師三尊像、そして東塔。国家仏教の象徴として、平城京の西に立っていた。

しかし国家の庇護は永続しない。

中世に入ると薬師寺は衰退し、享禄元年(1528年)の兵火でほぼ全山を失った。東塔と東院堂だけが残った。以来400年以上、薬師寺は伽藍の大半を欠いたまま存続した。檀家組織を持たないこの寺には、復興の財政的基盤がなかった。

転機は昭和42年(1967年)、高田好胤が管主に就任したことだ。

好胤は廃寺寸前の薬師寺を前に、前例のない方法を選んだ。全国800以上の市町村を巡り、8000回を超える法話で人々に写経を呼びかけた。一人1000円の供養料を集め、100万巻を目標とした。当初は年間1万巻しか集まらなかったが、好胤は諦めなかった。1976年に100万巻を達成し、金堂が復元された。その後も写経勧進は続き、西塔、中門、回廊と伽藍が順次復元されていった。

好胤が生涯に集めた写経は650万巻を超える。

興味深いのは、この写経勧進という方法が、奈良時代の国家写経所に起源を持つという事実だ。奈良時代、写経は国家的な仏教行為だった。好胤はそれを個人の行為として全国に広げた。国家が支えた寺を、今度は個人の積み重ねで支えた。

天皇の発願で生まれた寺が、一人の僧の言葉と無数の人々の筆によって生き返った。

写経勧進は今も続いている。現在、薬師寺の納経蔵に永代供養されている写経は850万巻を超える。境内の写経道場で書くことも、自宅で書いて郵送することもできる。長い年月にわたって供養されるものだからこそ、消えることのない墨で書くことが求められる——1300年後も残るために。

天武天皇が皇后の病気平癒を願ってこの寺を建てた。その祈りの形が、今日ここに来た人の筆によって続いている。

東塔はその変化を、1300年の位置から見ていた。


コラム③ 解体して初めて見えた1300年前の人間

2009年、東塔は史上初の全面解体修理に入った。

それまでにも部分修理は繰り返されてきたが、完全な解体は明治時代(1898〜1900年)以来、実に110年ぶりのことだった。12年かけて部材を一つひとつ外し、調査し、補修して、2021年に竣工した。

この修理の棟梁を務めたのは宮大工・石井浩司だ。岡山の工務店の息子として生まれ、29歳で薬師寺に入り、「薬師寺の鬼」と呼ばれた宮大工・西岡常一に師事した。西岡から言われた言葉は一つだった。「やるならば、創建当時の工人の心になってやりなさい」。石井はその言葉を胸に35年、薬師寺の伽藍復興と東塔の修理に打ち込んだ。

解体して初めて分かったことがある。

まず、長年の謎だった建立年代が確定した。東塔が藤原京から運ばれたのか、平城京で新たに建てられたのか——史料だけでは決着がつかなかった問いに、心柱の年輪が答えを出した。心柱の木材を分析したところ、西暦719年に伐採されたものと判明。平城京への遷都は710年。東塔は平城京で新たに建てられたことが、1300年後にようやく確認された。

次に、屋根の下から奈良時代の瓦が80枚残っていた。貴重な歴史遺産として後世に伝えるため、彩色せず現状のまま残すことが選ばれた。今の東塔の屋根には、奈良時代の職人が葺いた瓦が80枚、そのまま混じっている。

そして相輪の内部、心柱を包む金属管「檫菅(さつかん)」に、129文字の文章が刻まれていた。天武天皇が皇后の病気平癒を願ってこの寺を発願した経緯を記した文章だ。塔の頂点近く、普段は誰も触れない場所に、創建の祈りが刻まれていた。1300年間、誰にも読まれることなく。

さらに、創建当初の地面が今より1メートル以上低かったことも判明した。1300年で土が積もり、東塔の基壇は周囲の復元伽藍より埋もれた状態になっていた。修理では基壇を新設して高さを揃えた。私たちが今見ている東塔は、創建時よりも1メートル高い位置に立っている。

外から見れば、修理前と修理後の東塔は変わらない。しかし石井たちが解体して初めて知った事実が、この塔の内側に積み重なっている。

「創建当時の工人の心になってやりなさい」。

その言葉の意味は、解体が終わって初めて分かるものだったのかもしれない。


7. 現地情報

アクセス 近鉄橿原線・西ノ京駅から徒歩約2分

見学の目安 東塔を中心に約40分。薬師寺全体では90〜120分。

おすすめ見学順 南門 → 金堂 → 東塔・西塔(対比して見る)→ 大講堂 → 玄奘三蔵院伽藍

東塔と西塔は必ず並べて見ること。片方だけ見ても、この境内の核心には触れられない。

※拝観時間・拝観料・休館日は変更される場合があります。最新情報は必ず公式サイトでご確認ください。 → 薬師寺公式サイト


8. 関連リンク・参考情報


9. 用語解説

裳階(もこし) 建物の各層の下部に付けられた小屋根。本来は建物本体を風雨から守るための庇的構造だが、東塔では造形的な核心となっている。各層に裳階を持つ三重塔は、現存建築では東塔のみ。

双塔式伽藍(そうとうしきがらん) 東西に二本の塔を対称的に配置する伽藍形式。薬師寺が日本における先例とされる。中国の影響を受けた様式で、一塔式の法隆寺式伽藍とは配置の思想が異なる。

水煙(すいえん) 相輪の上部に設けられた青銅製の透かし彫り装飾。火災から塔を守るための「水」の象徴とされる。東塔の水煙には笛を吹き花を撒く飛天像が24体透かし彫りされており、奈良時代の金工技術の高さを示す。平成の大修理では損傷が激しいことが判明し、新たな「平成の水煙」が制作・設置された。

解体修理(かいたいしゅうり) 建築を一度完全に解体して部材ごとに調査・補修し、再び組み上げる保存手法。建物の内部構造や創建時の姿を確認できる反面、組み上げ直しによる影響もある。平成の東塔修理では三次元計測が活用された。

仕口(しぐち) 木造建築における木材同士の接合部の形状。適切に設計された仕口は、将来の解体・再組み立てを可能にする。東塔の創建時の仕口は1300年後の解体修理に耐えた。

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Photo by inunami (via Wikimedia Commons)
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