Home 国宝・重要文化財鑑真和上坐像——なぜ弟子たちは、師の「ありのまま」を刻んだのか

鑑真和上坐像——なぜ弟子たちは、師の「ありのまま」を刻んだのか

by MOMO

1. 導入

博物館で、手を合わせた。

仏像の前ではない。展示ケースの中に座る、80センチの老僧の像の前で。気がつくと、自然にそうなっていた。

2025年春、大阪市立美術館で開かれた国宝展に、唐招提寺の鑑真和上坐像が出品された。普段は奈良の御影堂に閉ざされ、年に3日しか公開されない像が、博物館の白い照明の下に置かれた。360度、遮るものなく、間近で見ることができた。

正面から見た。口元の無精ひげが見えた。左肩がわずかに前に出た、非対称の姿勢。閉じた目には、まつげが一本一本描き込まれていた。

美化されていない。老い、病んだ、そのままの姿だ。

この像は、仏ではない。1260年前に実在した一人の人間を写したものだ。それでも、向き合った瞬間に手が合わさる。なぜこの像には、そうさせる何かがあるのか。

弟子たちは、なぜ師を理想化しなかったのか。その問いから、この記事は始まる。


2. 基本情報

項目内容
正式名称乾漆鑑真和上坐像(かんしつがんじんわじょうざぞう)
所在地奈良県奈良市五条町13-46 唐招提寺 御影堂
制作時代奈良時代・763年頃(鑑真没年)と推定
制作弟子・忍基(にんき)が制作を指導したと伝えられる
技法脱活乾漆造(だっかつかんしつぞう)、彩色
像高80.1cm
文化財指定国宝
世界遺産1998年「古都奈良の文化財」構成資産
公開日毎年6月5〜7日のみ(年により変更あり)
今見ておくべき理由日本最古の肖像彫刻。1年に3日しか扉が開かない。この3日を逃せば、次の機会は1年後だ

※拝観料・開門時間・公開日程は必ず公式サイトでご確認ください。 → 唐招提寺公式サイト


3. 歴史と背景

江南第一と呼ばれた人物

742年、揚州の大明寺に二人の日本人僧が訪ねてきた。

栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)。遣唐使に同行して唐に渡り、9年間かけて「戒律を正しく授けられる高僧」を探し続けた末に、ようやくたどり着いた人物がいた。

鑑真(がんじん)。688年、揚州に生まれ、洛陽・長安で修行を積み、江南第一の大師と称された律僧だ。四十年余にわたって戒律を授けた弟子の数は、四万人に及ぶと伝えられる。当時の唐においても、これほどの高僧が海を渡って他国へ出ることは異例だった。

なぜ、当時55歳のこの人物が動いたのか。

当時の日本には、正式な手続きで僧侶になれる場がなかった。正しい戒律を持つ高僧がいなければ、授戒が成立しない。栄叡と普照が9年かけて探し続けたのは、その一点だった。

求めを聞いた鑑真は、弟子たちに問いかけた。誰か日本へ行く者はいないか、と。誰も名乗り出なかった。弟子たちが渡海の危険を口々に訴えた。荒れた東シナ海の航路。命がけの旅だ、と。鑑真は静かに答えた。

「何ぞ身命を惜しまん」

四万人の弟子を持つ人物が、なぜ見知らぬ島国の求めに、これほど即座に動いたのか。史料はその内面を記さない。ただ、この一言だけが残っている。

翌年から渡航の試みが始まった。

12年、5度の失敗

最初の挑戦は密告で阻まれた。2度目は嵐で難破した。3度目は強風で引き返した。4度目も失敗した。5度目、ようやく外洋に出たが漂流し、海南島にたどり着いた。同行した栄叡は、その旅の途中で病没した。

この間12年。鑑真は次第に視力を失った。医師の治療が逆効果となり、両目が見えなくなったとも伝えられている。失明したまま、それでも渡航への意思を捨てなかった。

753年、6度目の挑戦。鑑真は66歳になっていた。

12月、鹿児島に上陸。翌754年2月、平城京に入った。聖武上皇以下の歓待を受け、東大寺大仏殿前に戒壇を設けて授戒を行ったと記録されている。日本における正式な授戒制度の始まりとされる出来事だ。当時の日本には、正規の手続きで僧侶になれる場がなかったと考えられており、鑑真が届けたのはその根幹となる仕組みだったとされる。

唐招提寺での最後の5年

759年、鑑真は朝廷から土地を賜り、唐招提寺を創建した。

しかし金堂は、鑑真の生前には完成しなかった。寺はまだ道場として途上の状態だった。完成させたのは、鑑真没後に弟子の如宝(にょほう)の尽力によるものと伝えられる。

763年、鑑真は西に向いて座禅を組んだまま息を引き取ったと伝えられている。76歳だった。なぜ西を向いたのか、記録はその理由を記していない。


4. 像の特徴——「ありのまま」という選択

美化しなかった理由

弟子の忍基(にんき)が、唐招提寺の講堂の梁が折れる夢を見た。師の死期が迫っていると察した忍基は、他の弟子たちとともに坐像の制作を始めた。

完成したのは、鑑真が亡くなった763年頃と推定されている。

像を前にして、最初に気づくのは「美化されていない」という事実だ。口元には無精ひげが残る。左肩がわずかに前に出た非対称の姿勢。閉じた目には、まつげが一本一本描き込まれている。鑑真の晩年は病がちだったと伝えられており、この姿勢や表情が臨終に近い状態を写しているとする見方がある。ただし、それを確認する直接の史料はない。

当時の日本に、人物の肖像を刻む習慣はなかった。仏を造る技術はあった。しかし、生身の人間の顔を、そのまま像に残そうとした例は、記録の上では存在しない。

なぜ美化しなかったのか。

弟子たちは、理想の師ではなく、今目の前にいる師を残そうとした。老い、病み、それでもそこにいる人間を。そのまま封じ込めることが、弟子たちの最後にできることだったのかもしれない。なぜそう選んだのか、記録はない。ただ、その選択が1260年後も人を立ち止まらせているのは、事実だ。

衣が像になった可能性

像の技法は脱活乾漆(だっかつかんしつ)。粘土で原型を作り、その上に漆を染み込ませた麻布を何層にも重ねて貼り付ける。乾いた後に内部の粘土を取り除くと、漆と麻布だけでできた軽い像が残る。内部は空洞だ。

像の調査において、使用された麻布が実際に着用された衣類のものである可能性が指摘されている。僧衣は麻の布で作られる。鑑真自身が身につけた衣が、そのまま像の素材になったかもしれない、ということだ。

確認された事実ではなく、可能性の段階にとどまる。しかし、もしそうだとすれば、弟子たちは師の衣を剥がして、像の中に閉じ込めたことになる。なぜそうしたのか。その動機を記した記録は、見つかっていない。

同時代の像と何が違うのか

奈良時代には優れた彫刻が数多く作られた。東大寺の執金剛神像、興福寺の阿修羅像——いずれも高い技術を持つ。しかしそれらはすべて、仏・菩薩・天部という「超人的な存在」を写したものだ。

鑑真和上坐像が決定的に異なるとされるのは、「老いた人間をそのまま写した」という一点だ。阿修羅像の少年のような顔は理想化されている。執金剛神の隆々とした筋肉は威圧的な力を表す。どちらも「人間を超えた何か」を造形しようとしている。

鑑真和上坐像は逆だ。無精ひげ、非対称の肩、閉じた目。どれも「人間であること」を強調する要素と見ることができる。超越ではなく、等身大。なぜ弟子たちがそう選んだのか、史料は語らない。ただ、この選択が日本彫刻史の中でこの像を孤立した存在にしていることは確かだ。

後世の肖像彫刻と比べても、この像の異例さは際立つ。鎌倉時代になると、運慶・快慶らが写実的な肖像彫刻を数多く残した。東大寺南大門の僧形像、興福寺の無著・世親像——どれも精緻で力強い。しかし鎌倉の肖像には、対象人物の「威厳」や「理想的な高僧像」を強調する傾向がある。鑑真和上坐像が写しているのはそれとも違う。威厳ではなく、衰え。理想ではなく、今ここにいる師の、そのままの姿だ。奈良時代にこの選択をした弟子たちが何を思っていたのか——500年後の鎌倉の仏師たちも、おそらく知らなかった。

肖像彫刻において、目を閉じた姿は異例だ。

鑑真は失明していた、という説がある。閉じた目は、その事実を写したものだ、とも言われる。あるいは、深い禅定(ぜんじょう)の状態を表している、とも。臨終の姿をそのまま写した、という見方もある。

どれが正しいのか、確認できる史料はない。

ただ、像の前に立つとき、その閉じた目が、見る者を遮断しない。どこか内側に向いた静けさが、むしろ見る者を引き寄せる。答えが出ていないことが、この像の深さを作っているのかもしれない。


5. 体験としての鑑賞

3日間だけの対面

6月5日から7日。拝観できるのはこの3日間だけだ。

御影堂に入ると、厨子の扉が開かれている。目が慣れるまでに、数秒かかる。薄暗い内部に、小さな像が座っている。80センチ。予想より小さい、と感じる人が多い。

しかし、向き合うと、その小ささが気にならなくなる。閉じた目。わずかに前に出た左肩。口元の、細い無精ひげ。どこも、作り物らしくない。

3日しかない。だから、見る者の時間の使い方が変わる。急かされているのに、足が動かない。その感覚が、この像の前では起きやすい。

開扉期間外の唐招提寺

3日を逃しても、唐招提寺には行く価値がある。

開山堂には「御身代わり像」が安置されており、通常でも参拝できる。2013年に制作された脱活乾漆造の像で、国宝とは別物だが、技法と姿勢を間近で確認できる。

境内の奥には鑑真の墓もある。苔むした静かな場所で、唐招提寺の中でも特に人が少ない。その墓の前に立つと、金堂の完成を見ずに逝った老僧のことが、少し具体的に迫ってくる。


6. 深掘りコラム

コラム① 「日本最古の肖像彫刻」——その言葉の正確な意味

「日本最古の肖像彫刻」という肩書きは正しい。ただし、何が「最古」なのかを確認しておく必要がある。

これは「現存する」最古だ。

奈良時代以前にも、人物を写した像が存在した可能性はある。しかし現存しない。火災、戦乱、腐朽——多くの理由で像は失われる。残ったものの中で最古、というのが正確な言い方だ。

また、「肖像彫刻」という限定がある。仏像は人物を写したものではない。菩薩や如来は、理想の姿として造られる。鑑真和上坐像が「肖像」として異例なのは、実在した特定の人間の、その人固有の顔と姿を写そうとしたからだ。

なぜ、この像だけが残ったのか。

1260年という時間の中で、戦乱があり、火災があり、廃仏毀釈があった。奈良の寺院が何度も危機にさらされる中で、この像は今も御影堂の厨子の中にある。誰が、どのように守ったのか、詳しい記録は残っていない。「最古」という言葉は、その空白ごと抱えている。

コラム② 中国で今も顕彰される日本の賢人

1980年、鑑真和上坐像は中国へ渡った。

揚州と北京での特別展示。鑑真の故郷・揚州には大明寺が現存し、境内には鑑真記念堂が建てられている。日中国交正常化の象徴として、像の里帰りは実現した。

中国において鑑真は、日本の史書に登場する人物ではなく、唐の高僧として記憶されている。「過海大師」「唐大和上」——その称号は、海を渡った事実を中心に据えている。四万人の弟子を持ちながら、55歳でその地位を捨てて船に乗った人物として。

像は日本に戻った。唐招提寺の御影堂で、今も毎年6月に扉が開く。

揚州の大明寺には、唐招提寺を模した伽藍がある。日本の寺が中国に、中国の記憶が日本に——1200年後も、鑑真の渡航は往復し続けている。

コラム③ 1260年後も、人はこの像の前で手を合わせる

鑑真は仏ではない。菩薩でも如来でもない。1260年前に実在した、一人の人間だ。

それでも、この像の前で人は手を合わせてきた。

江戸時代、松尾芭蕉は御影堂の前でこう詠んだ。「若葉して御目の雫ぬぐはばや」——失明した老僧の目を、青葉の雫でぬぐってあげたい、と。1000年前の人物の痛みを、芭蕉は自分のこととして詠んだ。

1980年、像が中国・揚州へ里帰りしたとき、会場には長い行列ができたと記録されている。鑑真が唐を発ってから1227年後のことだ。

昭和46年から57年にかけて、日本を代表する画家・東山魁夷は御影堂の障壁画を描いた。10年以上の歳月をかけ、日本の風景と鑑真の故郷・中国の山河を、鑑真和上坐像を取り囲むように描き続けた。画家は鑑真に何を感じていたのか。その問いは、障壁画の前に立つ者に委ねられている。

2025年春、大阪市立美術館の国宝展に像が出品された。博物館の白い照明の下で、360度から間近に見ることができた。像の前で、自然と手を合わせた人がいた。

ここで一つ、現代的な問いが立ち上がる。

デジタル技術が進み、像の3Dデータを取って画面上で360度見ることが、技術的には可能になりつつある。では、なぜ人は実物の前に立ちたがるのか。データではなく、1260年前の漆と麻布でできた80センチの像の前に。鑑真和上坐像は年に3日しか公開されない。それでも人は奈良へ行く、あるいは博物館の会場に並ぶ。その行為の意味は、像を「見る」ことだけではないのかもしれない。

仏像の前で手を合わせるのは、信仰の行為だ。しかしこの像の前で起きるそれは、少し違う何かかもしれない。江南第一と称えられながら55歳で船に乗り、12年をかけ、視力を失いながらたどり着いた人間への——畏敬か、共感か、それとも言葉にならない何かか。

唐招提寺の御朱印には、本尊「盧舎那仏」と並んで「鑑真大和上」がある。仏と人間が、同格で並ぶ。

なぜこの老僧は、1260年後も人を動かすのか。その問いに、像は答えない。ただ目を閉じたまま、そこに座っている。

唐招提寺 鑑真御廟
Photo by 663highland (via Wikimedia Commons)
CC BY-SA 3.0

7. 現地情報

項目内容
所在地奈良県奈良市五条町13-46
坐像公開毎年6月5〜7日のみ(年により変更の場合あり)
通常拝観御影堂は非公開。開山堂の御身代わり像は通常参拝可
開門時間8:30〜17:00(受付終了16:30)※変更の場合あり
拝観料公式サイトにてご確認ください

※最新の公開情報・拝観料は必ず公式サイトでご確認ください。 → 唐招提寺公式サイト

アクセス 近鉄橿原線「西ノ京駅」下車、徒歩約8分 駐車場あり(有料)

おすすめ見学順序 ① 南大門 → ② 金堂・講堂(伽藍) → ③ 鑑真和上御廟(墓所) → ④ 御影堂または開山堂 → ⑤ 新宝蔵

鑑真の墓所は、境内の奥、人が少ない静かな場所にある。金堂を見てから墓に向かうと、完成を見ずに逝った人物のことが、より具体的に感じられる。


8. 関連リンク・参考情報

唐招提寺公式サイト
文化庁・文化遺産オンライン「乾漆鑑真和上坐像」

参考文献

  • 井上靖『天平の甍』(新潮社、1957年)——鑑真の渡航を主題にした小説。弟子たちの視点から描かれ、鑑真の存在の大きさが伝わる
  • 淡海三船『唐大和上東征伝』(779年)——鑑真の事績を記録した一次史料

9. 用語・技法のミニ解説

脱活乾漆(だっかつかんしつ) 粘土で原型を作り、漆を染み込ませた麻布を何層にも重ねて貼り付ける技法。乾燥後に内部の粘土を取り除き、漆と布だけの軽い像を作る。内部が空洞になるため、木像より軽く、腐朽しにくい。奈良時代に多用されたが、平安時代以降は木彫が主流になったため、現存する脱活乾漆の作品は少ない。鑑真和上坐像はその代表作の一つ。

結跏趺坐(けっかふざ) 両足を組み、足の裏を上に向けて腿の上に乗せる座り方。仏教の瞑想や禅定に用いられる基本の姿勢。鑑真は西に向いてこの姿勢のまま息を引き取ったと伝えられており、坐像はその臨終の姿を写したとする説もある。

戒壇(かいだん) 正式に僧侶となるための授戒の儀式を行う場所。鑑真が来日する以前の日本には、正規の手続きで授戒できる場がなかった。鑑真は754年に東大寺に最初の戒壇を設け、その後各地に戒壇を整備した。これにより日本の仏教制度の根幹が整った。

南山律宗(なんざんりっしゅう) 中国仏教における戒律の学派の一つ。唐代の道宣(どうせん)が大成した。鑑真はその正統な継承者として唐で活動し、日本にこの律の体系を伝えた。唐招提寺は今も律宗の総本山として法灯を継いでいる。

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