Home 世界遺産・文化的景観首里城だけじゃない——沖縄に、もう一つの城の世界がある

首里城だけじゃない——沖縄に、もう一つの城の世界がある

by HJ編集部
沖縄首里城碧

1. 導入

2019年10月31日未明、首里城が燃えた。

正殿から出火した炎は約11時間燃え続け、正殿など7棟が全焼した。文化財421点が失われた。沖縄の人たちが泣いた。本土でも、世界でも、ニュースが駆け巡った。

その夜、多くの人が初めて気づいたことがある。

首里城は「世界遺産」だったのか、と。

そしてもう一つ。首里城が燃えたのに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」という世界遺産の価値は損なわれなかった、というニュースを聞いて首をかしげた人も多かったはずだ。なぜか。世界遺産として登録されているのは建物ではなく地下の遺構であり、しかも構成資産は首里城跡だけではないからだ。

グスク、という言葉を聞いたことがあるだろうか。

沖縄の言葉で「城」を意味する。首里城もグスクの一つだが、世界遺産にはほかに今帰仁城跡・座喜味城跡・勝連城跡・中城城跡という四つのグスクが含まれている。いずれも建物はなく、石垣だけが残る。天守もない。派手さもない。しかしそれぞれが、まったく異なる人間の物語を石の中に刻んでいる。

首里城が燃えた夜、その四つはひっそりと、いつもと同じように丘の上に立っていた。


2. 基本情報

項目内容
正式名称琉球王国のグスク及び関連遺産群
所在地沖縄県各地
主な築城時期12〜15世紀頃
世界遺産2000年登録(9資産で構成)
主なグスク首里城跡・今帰仁城跡・座喜味城跡・勝連城跡・中城城跡
首里城正殿2019年焼失、2026年秋に復元完成予定
今見ておくべき理由首里城復元完成を機に沖縄への関心が高まるいま、「もう一つの城の世界」を知っておく価値がある

※各グスクの拝観料・開場時間は施設ごとに異なります。訪問前に各公式サイトでご確認ください。


3. 歴史と背景

琉球は、日本ではなかった

グスクを「日本の城の沖縄版」と思うと、最初から理解がずれる。

琉球王国が日本に併合されたのは1879年だ。明治政府が「琉球処分」を断行し、沖縄県を設置した。それまでの数百年間、琉球は独立した王国として存在していた。グスクが作られた12〜15世紀、この島に「日本の一部」という意識はなかった。

天守がないのは技術の遅れではない。別の文明が、別の論理で作ったからだ。

三つの国が争った島

15世紀初頭まで、沖縄本島には三つの勢力が並立していた。北部の北山、中部の中山、南部の南山——「三山鼎立時代」と呼ばれる。それぞれの王が独自のグスクを拠点とし、中国への朝貢貿易をめぐって競い合っていた。

1372年、中山王の使節が初めて中国・明に朝貢した。「中国に琉球の王として認められること」が権力の源泉だった時代だ。認められた者が貿易の利権を独占できる。グスクは単なる軍事施設ではなく、その権力の正統性を示す場でもあった。

統一したのは中山王・尚巴志(しょうはし)だ。1416年に北山を滅ぼし、1429年に南山も降して琉球王国を成立させた。しかしそれで島が平和になったわけではない。各地の有力按司(あじ)——地方の領主——は独自のグスクを持ち、王府への服従を拒み続けた。

なぜグスクに、祈りの場があるのか

グスクを見て最初に不思議に思うことがある。城の中に、祭祀の空間がある。

御嶽(うたき)と呼ばれる琉球信仰の聖地が、グスクの内部に存在する例が多い。世界遺産の構成資産に斎場御嶽(せーふぁうたき)という純粋な祭祀空間が含まれているのも、グスクと信仰が切り離せない関係にあるからだ。

研究者の間では、グスクという言葉はもともと「聖域」を指していた可能性が指摘されている。聖域が先にあり、そこに按司が政治的・軍事的な拠点を重ねていった——という解釈だ。定説ではなく議論は続いているが、この視点を持って石垣を見ると、グスクという空間の意味が変わる。

城ではなく、聖域に人が集まり、やがて城になった場所。


4. 建築の特徴

石垣が主役の城

本土の城——姫路城や大坂城——では石垣は土台だ。その上に天守がそびえ、城の「格」を遠景で示す。グスクには「上」がない。石垣そのものが城の主役だ。

地形の輪郭をなぞるように積まれた曲線の石垣は、遠くから見ると大地そのものが持ち上がったように見える。城が自然から切り離された人工物として屹立するのではなく、丘陵に融け込むように立っている。

そしてグスクの石垣は、一つとして同じではない。

今帰仁城跡の石垣は自然石をほぼ加工せず積む「野面積み(のづらづみ)」だ。総延長約1500メートルにわたって屏風状に曲線を描く。北山王の居城として14世紀末に整備されたとされ、荒削りな力強さがある。

座喜味城跡は護佐丸という按司が15世紀初頭に築いた。城壁をあえて曲線状にうねらせることで強度を上げ、門にはくさび石をはめ込んだアーチ構造を採用した。現存する沖縄最古のアーチ石門だ。アーチは圧縮力で荷重を分散させるため、直線積みよりはるかに強い。護佐丸がその力学的原理を直感的に理解していたことは、600年後に残る石門が証明している。

勝連城跡では城内の最上部に瓦葺きの建物があったことが発掘調査で確認されている。瓦葺き建物を持つグスクは現在のところ首里城・浦添城・勝連城の三つのみとされており、城主・阿麻和利が東アジア交易で蓄えた富の痕跡が物証として残っている。

同じ「グスク」という名前の下に、まったく異なる石の世界がある。


5. 体験としての鑑賞

グスクに来て最初に感じる違和感を、大切にしてほしい。

「どこを見ればいいのかわからない」という感覚だ。

本土の城では天守が視線の目標になる。進む方向が直感的にわかる。しかしグスクでは石垣が視線を曲げ、門の向こうにまた石垣が現れ、歩き続けないと全体像が見えない。中心が、すぐには見えてこない。

これは設計の失敗ではない。

攻め手に「次の景色」を読ませないための防御でもあり、参拝者を祭祀空間へ段階的に導く神社の参道の論理でもある。軍事と信仰が同じ空間文法を共有している。

三つのグスクを同じ日に回ることをお勧めしたい。今帰仁城跡の野面積みの石垣、座喜味城跡のアーチ門、勝連城跡から見える海——それぞれの印象がまったく異なり、「グスク」という一つの言葉の下にどれほど違う世界があるかが、歩いて初めてわかる。写真を見比べただけでは、その差は半分も伝わらない。


6. 深掘りコラム

コラム① 「グスク」とは何語か——城ではなかった可能性

多くの人はグスクを「沖縄の言葉で城のこと」と思っている。

しかし研究が進むにつれ、それだけでは説明しきれないことが見えてきた。

「グスク」という言葉が指す対象は、石垣を持つ城郭建築だけではない。石垣すら持たない岩山や洞窟が「グスク」と呼ばれる例がある。そうした場所の多くは御嶽と重なっており、信仰の場としての性格を持つ。

つまりグスクはもともと「聖域」を意味する言葉だった可能性があり、そこに按司たちが政治的・軍事的な拠点を重ねていった——という解釈が有力視されている。ただしこれは定説ではなく、起源をめぐる議論は今も続いている。

この解釈が正しいとすれば、グスクに御嶽が「付随している」のではなく、御嶽の上にグスクが「建てられた」ことになる。聖域が先にあり、権力がそこに乗っかった。

「なぜ城の中に祭祀の場があるのか」という問いへの答えが、逆転する。

石垣の下に何が先にあったかを想像しながら歩くと、グスクという空間の重さが少し変わる。

コラム② 首里城は何度、燃えたか

2019年の火災を「首里城の受難」と呼ぶ人がいる。しかし歴史を辿ると、首里城は何度も燃えている。

琉球王国時代だけで三度の大火があり、1945年の沖縄戦でも徹底的に破壊された。2019年の火災はその意味で五度目の焼失だ。1992年に復元された「首里城」は、戦後に作られた建物であり、2019年に燃えたのはその復元建物だった。

一方、他の四つのグスク——今帰仁・座喜味・勝連・中城——は建物がそもそもない。燃やすものがない。

ただしその石垣も、無傷で今日に至ったわけではない。座喜味城跡は1945年に日本軍の高射砲陣地として使われ、米軍の攻撃を受けた。戦後も米軍のレーダー基地建設によって石垣とアーチ門の多くが破壊された。現在残るアーチ門は、その破壊を奇跡的に免れたものだ。

グスクの石垣が語るのは、12〜15世紀の琉球の話だけではない。1879年の併合、1945年の戦争、戦後の米軍統治——その全部が、石垣の傷として重なっている。

コラム③ 石垣を積む人がいなくなる

グスクの石垣は今も修復が続いている。

琉球石灰岩はサンゴ礁起源の石材で、加工しやすい半面、塩害と風化に弱い。放置すれば数十年で劣化する。2010年の沖縄本島近海地震では勝連城跡の石垣の一部が崩落した。

修復には「伝統工法で石を積める職人」が必要だ。その職人が、減り続けている。

現代建築の技術者は多い。しかし琉球石灰岩を、地形に合わせて、600年前の職人と同じ論理で積める人間は限られる。技術は文書に残せるが、身体知は人から人へしか渡らない。担い手が途絶えれば、石垣は積み直せなくなる。

首里城は木材と職人を集めて2026年秋に復元される。では、石垣を積む技術はどうやって次の世代に渡すのか。

グスクの曲線は今も、その問いを抱えたまま丘の上に立っている。


7. 現地情報

グスクは沖縄本島各地に点在しており、一か所で完結しない。複数を組み合わせて回ることで、琉球の多様な世界が見えてくる。

おすすめ巡回ルート

今帰仁城跡(野面積みの大石垣・北山王の居城)→ 座喜味城跡(護佐丸のアーチ門)→ 勝連城跡(阿麻和利の海を望む城)

北部から南下する順序で、石垣技術の変遷と王府との権力闘争の歴史が時系列に重なる。3か所で一日、各城跡で60〜90分が目安。

首里城跡は那覇市内にあり、正殿復元工事が2026年秋完成予定。完成前後どちらに訪れるかで、見えるものが変わる。

※各施設の拝観料・開場時間・休場情報は必ず公式サイトでご確認ください。


8. 関連リンク・参考情報

サイト内関連記事候補(内部リンク)

9. 用語・技法のミニ解説

グスク 沖縄・奄美地域に見られる城郭・拠点施設の総称。12〜15世紀頃に発展。語源については「聖域」を意味する言葉に由来するという説があるが、定説はない。軍事・政治・祭祀の機能が重なる例が多く、「城」という言葉だけでは捉えきれない。

按司(あじ) 琉球王国成立以前から各地を支配した有力者・地方領主。グスクを拠点とし、貿易・軍事・祭祀を担った。王府成立後も地方支配者として存続し、王府との権力闘争が繰り返された。

御嶽(うたき) 琉球信仰における祭祀空間。岩・森・泉など自然地形に神が宿るとされ、グスク内外に配置される例が多い。世界遺産の構成資産に含まれる斎場御嶽は琉球最高の聖地とされ、王府の国家儀礼が執り行われた。

野面積み(のづらづみ) 自然石をほぼ加工せずに積む、グスク石垣の最も古い工法。今帰仁城跡に典型的に見られる。後の時代の加工石積みと比べ、隙間が生じやすいが地形への適応力が高い。

三山鼎立(さんざんていりつ) 14〜15世紀初頭、沖縄本島に北山・中山・南山の三勢力が並立した時代。1429年に中山王・尚巴志が三山を統一し、琉球王国が成立した。多くのグスクはこの時代に建設・整備された。

アイキャッチ画像:
Photo by 663highland (via Wikimedia Commons)
Cropped from original
CC BY-SA 3.0

※ 当サイトはアフィリエイト広告を利用しています。

You may also like