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根来塗——朱の下の黒は、消耗か・設計か

by HJ編集部
根来塗り

1. 導入

朱は、最後にしか塗らない。

26にも及ぶ根来塗の工程のうち、朱漆が登場するのは最終工程だけだ。それ以前の25工程は、木地を整え、麻布を貼り、黒漆を何度も重ねることに費やされる。完成した椀は鮮やかな朱一色。黒はどこにも見えない。

では、なぜ根来塗の椀には黒が現れるのか。

答えは二つある。

一つは時間だ。日々使われ、洗われ、重ねられる——その繰り返しの中で朱が薄れ、下の黒が透けてくる。縁から、高台から、手が触れる場所から。これが中世の根来寺で僧侶たちが使い込んだ末に現れた「景色」の正体だ。

もう一つは、職人の手だ。近代以降、朱を塗った後に意図的に研ぎ出し、黒を見せる技法が「根来塗」として定着した。経年変化を、作る段階で先取りする。

どちらが本物か、という問いは意味をなさない。根底にある思想は同じだからだ——器は使い続けるものである、という前提。使い捨てのコンビニ容器が当たり前になった今、その前提自体が、すでに異文化に属している。


2. 基本情報

項目内容
正式名称根来塗椀(ねごろぬりわん)
所在地根来寺(ねごろじ):和歌山県岩出市根来2286。根来塗椀の現存品は、各博物館・美術館・寺院・個人蔵など所蔵先により異なる
制作時代中世(鎌倉時代後期〜室町時代・13世紀以降〜16世紀後半)に成立・発展したとされ、江戸時代以降にも継承された。個別の椀の制作年代は、各所蔵先の調査情報で確認が必要
作者個別作品の作者名は確認されていないものが多い
技法の種別漆工芸(塗り分け技法:黒漆の下地に、朱漆を重ねる根来塗の椀)
文化財指定根来塗関連作品に重要文化財・重要美術品に指定されるものあり。個別の指定状況は各所蔵先で確認が必要
世界遺産非登録
今見ておくべき理由使い込まれることで朱の下から黒が現れ、時間の痕跡が美として見られる根来塗の美学を示しているため

※拝観・展示情報は根来寺公式サイトおよび各所蔵先の公式情報をご確認ください。→根来寺公式サイト


3. 歴史と背景

根来寺の創建と発展

根来寺は、1130年(大治5年)ごろ、真言宗の僧・覚鑁(かくばん)が高野山に伝法院(大伝法院)と密厳院(みつごんいん)を建立したことを起源に持つとされる。

覚鑁は1140年(保延6年)に高野山内の対立を背景に根来の地へ移ったとされ、1144年(康治2年)にその地で入滅した。その後、1288年(正応元年)に頼瑜(らいゆ)が大伝法院の拠点を根来へ移したことで、根来は本格的な一大宗教都市へと発展していく。最盛期には坊舎2,700余ともいわれ、僧兵を1万人余規模で擁する巨大な寺院勢力に育っていった。

消耗から、茶道具へ

僧侶の日常には器が必要だった。飯器、汁椀、盆——それらを供給するために、寺院内の工房で漆器が多数制作されたと考えられている。ただし制作体制の詳細には不明点がある。使われたのは「黒漆の下地に朱漆を重ねる」という技法だ。だが日々使うことで、朱は少しずつ削れ、下の黒が現れてくる。

本来、これは「消耗」である。

しかし室町時代から安土桃山時代にかけて、この消耗した状態が茶人たちの目に止まった。茶の湯の美意識、とりわけ侘び茶の思想は、整いすぎたものより、摩耗によって生まれた複雑さの中に美を見たのだ。

天正の兵火と技術の行方

1585年(天正13年)豊臣秀吉による紀州攻め——俗に「根来攻め」と呼ばれる軍事行動によって、根来寺は焼き討ちにあったとされている(炎上の原因については複数の説がある)。

しかし、技術は残った。

海南(和歌山県海南市黒江)・輪島(石川県)・薩摩(鹿児島)などがその伝播先として語られるが、移動経路の詳細には伝承を含む部分がある。


4. 造形・技術

黒の上に朱——根来塗の構造

実際には複数の下地工程を経て黒漆を重ね、さらに朱漆を上塗りする多層構造である。

漆の世界には、より複雑な蒔絵(まきえ)や螺鈿(らでん)がある。一方で根来塗は、図柄もない、金も使わない。椀や盆の形そのもの、そして「塗り」だけで勝負するのだ。

縁と高台から黒が現れる

朱漆は、朱砂——硫化水銀の顔料——を漆に混ぜたものだ。ただし使用による摩擦を繰り返すことで、上層の朱漆が少しずつ薄れていく。この経年変化が根来塗の「景色」を生む。

使われ続けた根来塗の椀では、縁や高台など、手や口が触れやすい箇所から朱が薄れていく。そこに黒が透けてくる。

蒔絵との対比と、現代への継承

金粉を撒いて定着させる蒔絵や、貝殻の真珠質をはめ込む螺鈿は、作られた瞬間が最も豪華だ。一方、根来塗は逆だ。使うほど朱が薄れ、黒が現れ、その変化こそが評価の核になる。

現代の根来塗においては、製法の詳細に関する古文書は少ない。現代の職人が師から技術を引き継ぐ中で再構成してきた部分も多く、「根来塗とは何か」の輪郭は、今も動き続けているのかもしれない。


5. 体験としての鑑賞

根来寺境内を訪ねる

境内に入ると、天正の兵火を生き延びた国宝の大塔が堂々とそびえている。現在は木肌の落ち着いた風合いを見せている。根来塗の朱を境内で感じるなら、聖天堂正面の朱塗の壇を見ておきたい。室町時代から伝わるその壇こそが、根来寺に現存する根来塗の代表的な遺品とされる。

博物館コレクションで見る

東京国立博物館、京都国立博物館など、複数の施設に室町〜江戸時代の根来塗作品が収蔵されている。

実物の「景色」を読む

実物を前にしたとき、まず確認してほしいのは「どこから黒が出てきているか」だ。縁、底面の高台、内側の底——摩耗のパターンが、その器がどう使われてきたかを教えてくれる。

実物を近くで見て初めて、朱と黒の境界線がグラデーションではなく、無数の微細な摩耗の積み重ねであることが分かる。その微細さに気づいたとき、この器が単なる「古い食器」ではないことが腑に落ちるだろう。


6. 深掘りコラム

コラム①:「侘びの発見」は後付けか、先見か

根来塗が茶人に評価されたのは、侘び茶の美意識が広がった室町〜安土桃山時代だとされている。

多くの説明では「茶人が消耗した姿に美を見出した」という語り方をする。しかしこの語り方には、もう一つの読み方が含まれていない。

根来寺の僧侶たちが大量の漆器を作った背景には、実用性の追求があった。朱漆が剥げることは「消耗」として認識されていた可能性が高い——あるいはそもそも、そこまで意識されていなかったかもしれない。

茶人が発見したのは「器が使われた事実の美しさ」だった。

朱の下に黒を置くという選択は、構造的に「使い込まれる未来」を内包している。後付けの評価なのか、それとも無意識の先見だったのか。それは分からない。ただ、結果として根来塗は「壊れないために作られた器」ではなく「変わることで完成する器」として後世に伝わった。

その評価の転換が起きた場所と時間を、私たちはまだ正確には特定できていない。

コラム②:「根来塗」という名前は、焼け跡から生まれた

根来塗という名前が文献に初めて登場するのは、1638年(寛永15年)の俳諧作法書『毛吹草』だ。そこにはこう記されている——「根来椀・折敷 昔繁昌之時拵タル道具ト云 当時方々ニテ売買之」。

根来寺が豊臣秀吉に焼かれたのは1585年。名前の初出はその53年後。しかもその時点で既に「方々にて売買」されていた。

つまり「根来塗」という名前が確立した時、根来寺はもう存在しなかった。

産地が消えた後に、産地名だけが残った。各地に散った職人たちが朱塗りの漆器を作り続け、それが「根来」と呼ばれ、やがて技法の名称として定着した。名前は本家を失って初めて、自由に広まれたとも言える。

この拡散が、後に「本物」論争を生む。

根来塗研究者の河田貞は、根来寺産出の漆器のみを「根来塗」と呼び、それ以外は「根来もの」として区別すべきだと唱えた。産地名を冠する以上、産地で作られたものだけが「根来塗」であるという、至極まっとうな主張だ。しかし現場では両者は混在し、「根来塗」の看板は産地を問わず使われ続けている。

さらに話を複雑にするのが、技法そのものの変化だ。中世の根来寺では朱一色で完成させ、使い込まれて黒が出た。現代では最初から研ぎ出して黒を見せる。同じ名前の下に、思想の異なる二つの器が並んでいる。

では今「根来塗」と呼ばれているものは、何なのか。

産地か。技法か。それとも、朱の下に黒があるという構造そのものか。

根来寺は焼かれた。しかし名前は燃えなかった。その名前が何を指すのかは、500年近く経った今も、決着していない。

コラム③:使い込まれる美と現代デザイン

デニムは着込むほど体に馴染み、革製品は使うほど光沢が出る。根来塗の美学は、その原型の一つと言えるかもしれない。

デニムや革は、個人の使用スタイルによってそれぞれ違う景色が出る。根来塗の椀は、それを使った人間の名前が残っていないことの方が多い。誰かが毎日使い、誰かが洗い、誰かが重ねた。

個の痕跡ではなく、集積した無名の時間が景色を作る。

デジタル時代の今、「誰が作ったか」「誰が使ったか」の情報はあらゆる物に付与され始めている。NFTはその極端な例だ。しかし根来塗の椀は、そのような帰属を持たない。朱の中の黒は、特定の誰かの物語ではなく、時間そのものの痕跡だ。

その非個人性が、今という時代においてむしろ新鮮に映る、という逆説もある。根来塗の製法を体系的に記した中世の文書は極めて少なく、技術は長らく師から弟子へと口伝で受け継がれてきた。

一方、国産漆の国内生産量は慢性的に限られている。名前は残り、美学は評価され、技術はまだ続いている。

ただし、その「今」がいつまでか、については誰も断言できない。


7. 現地情報

項目内容
根来寺所在地和歌山県岩出市根来2286
拝観時間・拝観料根来寺公式サイト(https://www.negoroji.org/)で要確認
アクセスJR阪和線「和泉砂川駅」または「紀伊駅」、南海本線「樽井駅」からバスまたはタクシー。最新の経路は根来寺公式サイトで確認すること
所要時間境内散策のみで約60〜90分
根来塗作品の鑑賞東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館に根来塗関連作品が収蔵。展示時期は各館の公式サイトで確認すること

8. 関連リンク・参考情報

根来寺公式サイト 
東京国立博物館(根来塗 朱漆の美) 
京都国立博物館(根来塗と鎌倉彫) 
奈良国立博物館(円机 根来塗) 
文化遺産オンライン(文化庁)(根来塗の検索結果) 

参考文献:『日本の漆工』(東京国立博物館)、和歌山県立博物館刊行の根来塗関連図録ほか


9. 用語・技法のミニ解説

根来塗(ねごろぬり) 黒漆を下地に塗り、その上から朱漆を重ねる漆器の技法。使い込むことで朱が摩耗し、下の黒が現れる「景色」が美的特徴とされる。近代以降は職人が意図的に研ぎ出して黒を見せる技法も「根来塗」として定着している。

朱漆(しゅうるし) 朱砂(硫化水銀の顔料)を混ぜた漆のこと。鮮やかな赤色が特徴で、古くから儀礼や日常の器に使われてきた。

高台(こうだい) 椀や鉢の底面に付いた、器を安定させるための台状の部分。根来塗では手が触れやすいこの箇所から朱が摩耗し、黒が現れやすい。

侘び茶(わびちゃ) 室町時代に村田珠光(むらたじゅこう)が提唱し、武野紹鴎(たけのじょうおう)が洗練させ、千利休が大成した茶の湯のスタイル。華美を排し、簡素・不完全・余白の中に美を見出す美意識。

景色(けしき) 茶道の世界で、器の表面に現れた変化・模様・風合いを指す言葉。割れ・欠け・変色・摩耗などが「景色」として肯定的に評価される場合がある。

画像出典

Public domain image via Wikimedia Commons

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