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1. 導入
香山公園の池に、塔が映っている。
水面が揺れるたびに像は崩れるが、塔本体は動じない。600年以上、この場所に立ち続けてきた。
応永の乱(1399年)で討死した武将を弔うため、弟が礎石を据えようとした。しかしその弟も、塔の完成を見ることなく別の戦場で死んだ。弔う側が先に消えた。それでもこの塔は誰かの手で完成し、今もここにある。
誰のための塔なのか。誰が残したのか。 その問いに、この塔は600年間、何も答えていない。
2. 基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 瑠璃光寺五重塔(るりこうじごじゅうのとう) |
| 所在地 | 山口県山口市香山町7-1(香山公園内) |
| 建立時代 | 室町時代中期(15世紀前半〜中頃) |
| 発願者 | 大内盛見(おおうちもりみ) |
| 建築様式 | 和様基調・禅宗様折衷 |
| 高さ | 約31.2m(相輪含む) |
| 文化財指定 | 国宝(建造物) |
| 世界遺産登録 | 非登録 |
| 今見ておくべき理由 | 室町中期の折衷様式を完成形に近い形で残す国宝五重塔。令和年間の桧皮葺全面葺き替え直後の姿が今まさに見られる |
※拝観料・開館時間・休館日は変動するため、必ず公式サイトで事前確認を。 → 瑠璃光寺公式サイト
3. 歴史と背景
弔う者が先に死んだ
応永6年(1399年)、大内義弘は室町幕府に反旗を翻し、和泉国堺で戦死した。いわゆる応永の乱である。大内氏は当時、西日本有数の大名として山口を拠点に李氏朝鮮との貿易で富を蓄え、政治的にも文化的にも強い存在感を持っていた。義弘の死は、一族が賭けた賭けそのものの失敗だった。
その弟・盛見は後に大内氏の当主となり、兄の菩提を弔う塔を建てようとした。発願や着工の正確な時期を示す史料は現存していない。盛見自身も永享3年(1431年)、筑前国(現在の福岡県)での戦いで命を落とした。
弔う側が、先に消えた。
嘉吉2年(1442年)ごろに完成したと考えられているこの塔は、当初、香積寺(こうしゃくじ)という寺の境内に属していた。江戸初期の慶長9年(1604年)に香積寺が萩へ移転した後、元禄3年(1690年)に仁保の瑠璃光寺がこの地へ移転し、現在の伽藍が成立した。
発願者は完成を見ることなく戦場に消え、当初の寺も移転し、名前も後から付け替えられた。建てた一族もやがて歴史から消えた。それでもこの形だけが、誰かの意思を宿したまま残った。
法隆寺は国家が建てた。醍醐寺は皇室が建てた。どちらも「建てた者が残った」塔だ。瑠璃光寺だけが、建てようとした者が完成を見ずに消えた塔として、ここに立っている。
繁栄の手前に建てられた
この塔が建てられた時代、山口は大内氏の手によって急速に変わりつつあった。李氏朝鮮や明との貿易から得た富が文化投資に回され、画僧・雪舟を保護し、後にはフランシスコ・ザビエルを受け入れた。ザビエルは1550年の訪問時、山口の規模と繁栄を書簡に書き残している。
ただし「西の京」という呼称そのものは後世の表現であり、室町時代の人々がそう呼んでいたかどうかは確認できない。
この塔が建てられたのは、その繁栄が本格化する少し手前の時期にあたる。大内氏の文化的隆盛は、1551年の陶晴賢(すえはるかた)による謀反(大寧寺の変)で大内義隆が自害した時点で急速に終わった。繁栄の前に立ち、繁栄の終わりを見届け、それでも塔だけが残った。
4. 建築・技術
誰の意図が、この形を選んだのか
建築には、建てた者の意図が宿る。
法隆寺五重塔(7世紀)は各層の逓減が小さく、どっしりとした量感で地に根を張るように立つ。国家仏教の権威を示すために建てられた形の必然が、そこにある。醍醐寺五重塔(951年建立・952年落慶)は相輪が塔身の約四分の一強を占め、天を指すような垂直の緊張感が際立つ。皇室菩提の場にふさわしい格式が、あの比率を選ばせた。どちらも「建てた者が意図を持ち、建てた者が残った」塔だ。
瑠璃光寺の塔は違う。発願者は完成を見ずに死んだ。では、この形を最終的に決めた者は誰か。軒の深さを、逓減率を、装飾の少なさを、誰が選んだのか。その記録は残っていない。
高さ約31.2m。五重の層が積み重なるにつれ各層の幅は緩やかに小さくなる。この逓減率が絶妙で、頭でっかちでも急に細くなりすぎることもない。とりわけ評価が高いのは軒の反りだ。緩やかな曲線を描いて反り上がるその形は、遠目から見ると塔が宙に浮こうとしているように見える。池越しに眺めたとき、水面の映り込みと合わさって塔全体が上下に伸びる視覚効果が生まれる。
様式は和様を基調としつつ、禅宗様(唐様)の要素を取り入れた折衷様式だ。ただしこの塔における禅宗様の要素は、二重の手摺の逆蓮柱と内部の円形須弥壇(しゅみだん)にとどまる。全体としては装飾が少なく、細身で引き締まった端正な姿だ。権威を示すためでも、格式を誇るためでもない。
この「装飾のなさ」が何を意味するのかは、誰の意図によるものかによって変わる。義弘のための弔いとして選ばれた形なのか。盛見が死ぬ前に指示した形なのか。それとも、発願者が消えた後に工事を引き継いだ名もない誰かが、権威も格式も関係なく、ただ塔として正しい形を選んだ結果なのか。
重さでも高さでもなく、軽さと静けさで存在するこの塔は、見る者に問いを返してくる。誰のための形か、と。
令和の葺き替えという問い
この塔の屋根を覆う桧皮葺(ひわだぶき)は、桧の樹皮を職人が一枚ずつ重ねる伝統技法だ。令和年間には約70年ぶりの全面葺き替えが実施された。600年前の形を保つことは、600年分の技術の継承を要求し続けることでもある。発願者が意図した形を、発願者を知らない職人たちが600年間守り続けてきた——その連鎖が今も続いているかどうかは、今この瞬間も問われ続けている。
5. 体験としての鑑賞
池の正面から始めることをすすめる。
水を挟んで塔と向き合う位置に立つと、池面の映り込みが実像と重なる。風がなく光が安定した早朝であれば、映り込みはほぼ完全な鏡像になると記録されている。上の実像と下の映り込みが一本の垂直線をつくる——同じ塔が、視点によってまるで別の建物のように見える瞬間がある。
近づくほどに、軒の張り出しが視界を占めていく。五層分の軒が重なって頭上に広がるとき、高さではなく奥行きが感じられる。その感覚は写真では再現されにくく、現地の光と距離に依存する部分が大きいと考えられる。
春、池周辺にソメイヨシノが並ぶ時期は山口を代表するイメージとして広く知られている。ただし人が集中するため、池の縁に静かに立つことが難しくなる。塔との時間を長くとりたいなら、早朝の訪問か桜の時期を外した平日が現実的だ。
霧の立ち込める朝、上層が見えなくなる塔はまた別の顔を持つ——写真記録からはそう推察できる。ただし、その場に立たなければ分からないことは、まだ多い。
6. 深掘りコラム
コラム① 「日本三名塔」という呼称は誰が決めたのか
この塔は「日本三名塔」の一つとして紹介されることが多い。法隆寺五重塔(奈良)・醍醐寺五重塔(京都)・瑠璃光寺五重塔(山口)という組み合わせが広く流通している。
しかしこの呼称に、公的な根拠はない。誰が、いつ、どのような基準で選んだかを示す文献は確認されていない。
選定基準が明示されていないランキングだという点は、正直に言っておきたい。そのうえで言えば、瑠璃光寺の塔がこの呼称に含まれ続けてきた理由は、観光的な話題性だけではないと思われる。室町中期という特定の時代に、折衷様式の完成形に近い形で建てられた国宝建築が、ここにしかない——という事実は変わらない。
「三名塔」という言葉が何を指しているのかを知ったうえで、この塔の前に立ったとき、見え方が変わるかどうか。それは訪れた人が決めることだ。
コラム② 弔いは、誰が引き継いだのか
盛見が死んだのは1431年。塔が完成したとされるのは1442年。その11年間、誰がこの工事を続けたのか。史料は語らない。
発願者が途中で死んだ建築は、珍しくない。しかしその場合、通常は後継者の名前が記録に残る。誰が完成させたか、誰が費用を負担したかは、権威の証明として刻まれることが多いからだ。この塔にはそれがない。
もう一つ、見落とされがちな事実がある。この塔が建てられた土地は、もともと義弘自身が建てた香積寺の境内だった。弟の盛見は、兄が作った寺の中に、兄を弔う塔を建てようとした。弔う場所まで、兄が用意していた。それでも義弘は弔われることなく堺で死に、盛見は塔の完成を見ることなく筑前で死んだ。
大内氏の家中が引き継いだと考えるのが自然だが、確認できる記録はない。塔が完成した嘉吉2年(1442年)という年は、室町幕府で嘉吉の乱が起きた年でもある。政治的に激動した時代の只中に、この塔は静かに完成した。
「西の京」と後世に呼ばれる大内氏の繁栄——雪舟を保護し、ザビエルを受け入れた文化都市山口の絶頂——は、この塔が完成してから約100年後に訪れ、1551年の陶晴賢による謀反(大寧寺の変)で急速に終わった。ただし「西の京」という呼称そのものは後世の表現であり、当時の人々がそう呼んでいたかは確認できない。
繁栄は消えた。塔は残った。
弔いを引き継いだ者の名前も、完成を喜んだ者の記録も、この塔には刻まれていない。誰かが続けた。誰かが完成させた。その「誰か」が分からないまま、600年が経った。
コラム③ 誰が残したのか分からない慰霊
戦没者を弔うための建造物は、形によって伝えるものが変わる。
ベトナム戦争記念碑(1982年、ワシントンDC)は黒い花崗岩に死者の名前を刻み、個人として召喚する。広島の原爆ドームは破壊されたままの形で記憶を凍りつかせる。どちらも「誰が、誰のために」という関係が、形に刻まれている。
瑠璃光寺五重塔は違う。弔うはずだった者が完成を見ずに死んだ。塔を建て続けた者の名前も、完成に立ち会った者の記録も、残っていない。誰が誰のために残したのかが、この塔には刻まれていない。
名前を刻む慰霊と、何も刻まない慰霊。どちらが死者に届くのかは、誰にも分からない。ただ、何も刻まなかったこの塔が600年間残り、2024年にはニューヨーク・タイムズの「その年に行くべき52カ所」に選ばれ、今も写真に撮られ続けているという事実だけがある。
弔いのために建てられたものが「美しい」と言われ続けることが、弔いとして機能しているのかどうか。答えを持っている者は、もういない。
7. 現地情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 山口県山口市香山町7-1 |
| アクセス | JR山口駅より路線バスまたはタクシー(約10〜15分目安) |
| 拝観時間 | 公式情報を要確認 |
| 休館日 | 公式情報を要確認 |
| 入場料 | 公式情報を要確認 |
| 所要時間 | 30分〜1時間程度 |
| 周辺スポット | 常栄寺雪舟庭、山口大神宮、洞春寺(とうしゅんじ) |
| 混雑回避 | 桜の時期(3月下旬〜4月上旬)は池周辺が混雑。早朝または花の時期を外した平日を推奨 |
8. 関連リンク・参考情報
→ 瑠璃光寺公式サイト
→ 山口県観光サイト「おいでませ山口へ」(瑠璃光寺)
→ 山口市観光情報サイト「西の京やまぐち」(国宝瑠璃光寺五重塔)
→ 文化遺産オンライン(文化庁)瑠璃光寺五重塔
参考文献
太田博太郎『日本建築史序説』(彰国社) 『日本建築史図集』(彰国社) 『山口県の歴史』(山川出版社)
9. 用語・技法のミニ解説
折衷様(せっちゅうよう) 和様・禅宗様・大仏様など複数の建築様式を組み合わせた形式。鎌倉後期以降に普及し、室町時代の建築に多く見られる。瑠璃光寺五重塔は和様を主体に禅宗様の要素を取り込んだ典型例とされる。
逓減率(ていげんりつ) 多層塔において上層に向かうにつれ各層の幅が小さくなる比率。この設定が塔全体の視覚的安定感を左右する。瑠璃光寺五重塔の逓減率は均整と軽快さを両立させた点で高く評価されている。
禅宗様(ぜんしゅうよう) 宋代中国の建築を源とし、鎌倉時代に禅宗寺院を通じて伝来した様式。木鼻や詰組(つめぐみ)など彫刻的な細部処理が特徴。この塔では逆蓮柱と円形須弥壇に限定的に使われている。
相輪(そうりん) 塔の最上部に据えられる金属製の部材。水煙・九輪・宝珠などで構成され、仏教的な宇宙観を象徴するとされる。
桧皮葺(ひわだぶき) 桧の樹皮を一枚ずつ重ねて葺く伝統屋根技法。瑠璃光寺五重塔では令和年間に約70年ぶりの全面葺き替えが実施された。担い手不足が深刻な技術でもある。
画像出典
Photo by JKT-c (via Wikimedia Commons)
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